神戸市灘区で納骨堂があるお寺をお探しなら永代供養ができる真宗大谷派(浄土真宗)璧圓寺へ。法事・葬儀もお任せ下さい。

真宗の教え

PREACHING

2018/01/08

 

忙しいという字は心を亡ぼすと書きます。安田理深先生は忙しいということは暇な証拠だと言われました。忙しいということは「どこに向かって生きているのか」、「何のために生まれてきたのか」という人生の根本問題を考えなくて済むからです。お寺では「お忙しい中」とは言わずに「ご多用の中」と言います。つまり「おおきなはたらきの中」という意味です。

 

告別式は肉体や目に見えるものとの別れであるとともに、目に見えないものとの出会いの場でもあります。それはその人の願い、想い、面影やことばの響きなどの温もり、そういったものと再び出会うことがお葬式の大事な意味合いだと思います。

 

先日、「死は終わりを意味する。しかし残された者にとっては始まりを意味する」ということばを目にしました。別れることによって、亡くなった方のことばが心に響き始めます。また、「出会いが人を育てていく。別れは人を深めていく」ということばも目にしました。死を大切なものとしていただいていくことが大事なことだと思います。仏教は生きるということに関わっている教えであり、先達も親鸞聖人の教えを通して人生を見つめなおしてきました。

 

なぜ見つめなおさなければならないのかというと、人間は砂漠や草原など依るべきものが何もない、文字通り目印になるものが何一つない、とりとめもない広がりを歩くと、自分ではまっすぐに歩いていると思っても利き手の方向に段々ずれていって、いずれは元の場所に戻ってしまうそうです。これを循環彷徨といいます。そこに目印としての木があれば、ずれていることに気付くことができます。我々の生活においても「教え」が目印となって得手の方に曲がっていることに気付かせ、本来の進むべき方向を指し示してくれます。親鸞聖人は「教行信証」に「行に迷い、信に惑う」と言われました。「行」は「行動」です。「信」とは自分の「信念」です。自分に自信を持つときは誰の意見も聞きません。そのときの惑いはとても深いまよいとなります。信念を持ってまっすぐに生きていると思っていても、教えを聞くことによって、自分が惑っていたことに気付かされます。

 

親鸞聖人は「浄土真宗」を宗派の名称としてではなく、「浄土を本当の拠り所として生きる」という意味とされたと思います。浄土は私たちが帰っていく世界です。私たちは日々「死」という別れの世界に近づいていきますが、同時に浄土という出会いの世界に日々近づいていきます。出会える世界をいただけることによって、苦しみの多い娑婆世界を生きることができるのでしょう。そういう意味で帰る世界としての浄土は私たちにとって大切な世界だと思います。

 

一楽真先生は著書の中で、「もしお浄土がどこかにあると仮定しましょう。でもそこに私が行くことによってすぐに穢土にしてしまうでしょう。浄土は場所の問題ではなく、生き方の問題だと思います」と書かれています。摂取不捨とは「えらばず、きらわず、みすてず」という生き方でしょう。阿弥陀様にお参りするということは「いやなことも、つらいこともいただきます」という生き方をいただくということでしょう。また苦しい事実を受け止められなかった自分を顧みて、改めてお念仏をいただくという意味合いもあると思います。

 

浄土とは場所の問題ではなく、生き方の問題です。浄土とは阿弥陀様が摂取不捨として全ての人を受け入れるところとして建立されたところです。そういう浄土に日一日近づいている私たちにとって、摂取不捨という生き方はとても大事なものだと思います。「せめて」という言葉は私たちの日々の生活にとって大切なものですが、実際には「どうせ」という言葉によって生きています。「選んで、嫌って、見捨て」ている私たちに、阿弥陀様は「えらばず、きらわず、みすてず」と呼び掛けられており、それこそがお浄土からのはたらきです。「老後」という言葉ができたのは明治時代以降だそうです。本来は「老入」つまり「老いに入る」という言葉だったそうです。誰もが「老いに入る」つまり変化し続けているということです。二十歳までは成長で、それ以降は老化が始まります。はた目にはよく変化がわかりませんが、少しづつ確実に老入していきます。東井義雄先生の詩に「雨」を詠んだものがあります。「天に向かってブツブツ言うな 雨の日には雨の日の生き方がある」というものです。悲しい時には悲しいときの生き方が、老いた時には老いた時の生き方が、病の時には病の時の生き方があります。どんなときも「えらばず、きらわず、みすてず」という言葉はブツブツ言うしかない私たちにこそ聞こえてくるのでしょう。また、東井義雄先生の詩に「老い」を詠んだものもあります。

 

「老」は失われていく過程のことではあるけれども得させてもらう過程でもある
視力はだんだん失われていくが花がだんだん美しく不思議に見させてもらえるようになる
聴力はだんだん失われていくがものいわぬ花の声が聞こえるようになる
蟻の声が聞こえるようになる みみずの声が聞こえるようになる
体力はどんどん失われていくがあたりまえであることのただごとでなさが
体中にわからせてもらえるようになる
失われていくことはさみしいが 得させていただくことは よろこび
「老」のよろこびは 得させていただく よろこび

 

和田稠先生は「老いることは凄まじいが別に他人にわかってもらおうとは思いません。どうぞ元気で長生きして下さい。元気にして年いけばそのうちわかります」とおっしゃってました。老いることによって通じることや気が付くことがあるということだと思います。苦悩の中でこそ出会えるものがあるということです。

 

私の勝手な解釈ですが、阿弥陀様の本願、第十一願「必至滅度の願」を、必ず通ずるというふうにいただいています。必ず通じて、響き合う世界がお浄土だと思います。今は通じなくても必ず通じる世界がある。仏壇に手を合わせている姿が必ず子どもや孫にいつか通ずる。苦悩と出会い、苦しみや悩みを「えらばず、きらわず、みすてず」いただいていくことが大切なことでしょう。苦悩を摂取することは知らないうちに私たちの力となります。

 

藤元正樹先生のことばに「花咲かす 見えぬ力を 春という」というものがあります。春はそれを感じる人のところに力となってやってきます。このことばの後は「人となす 見えぬ力を 仏という」です。私を人として育てるはたらきのことを仏というのでしょう。

 

私の弟は長浜で住職をしていますが、ある子どもが日曜学校のときに阿弥陀様の摂取不捨のポーズを見てこう言ったそうです。「阿弥陀様がOKと言ってるよ」。この言葉はまさに阿弥陀様の「えらばず、きらわず、みすてず」のお心を表しているものだと思います。「あなたはあなたのままでいいんですよ」という呼びかけは、自分のことですらえらんで、きらって見捨ててしまっている私たちにとって本当にかけがえのない呼びかけだと思います。

 

神戸で納骨堂・永代供養をお探しの方は→こちらへ


〒657-0835 兵庫県神戸市灘区灘北通2-7-2

tel:078-861-1710

mail:

Copyright © 2018 真宗大谷派 普照山 璧圓寺 All rights reserved.