神戸市灘区で納骨堂があるお寺をお探しなら永代供養ができる真宗大谷派(浄土真宗)璧圓寺へ。法事・葬儀もお任せ下さい。

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2020/08/23

人は亡くなったら何処へ行ってしまうのか。誰しもが抱く疑問ではないだろうか。お釈
迦様は死後のことについて、あなたたちの人生に関わりの無いことだからと、何もお答え
にならなかったという。
亡くなった方々の行方は、縁が深いほど気になるもの。お墓を前に様々な思いがこみ上げてくる。
しかし、その思いはお墓からやって来るのではい。自分のこころの中から、数々の思い出を通して、自然と湧き上がってくるものだ。お参りをきっかけに、いつも私と一緒にいてくれている、大切な存在にふと、気付かされる。 (南御堂HPより引用)


2020/04/16

ある駅で乗客と駅員の揉め事に出くわした。原因は分からないが、乗客が高圧的に「客」であることを振りかざし、駅員に詰め寄っていた。だが、矢次に吐き出されるその言葉には、歪んだ社会的立場の優劣を笠に着る「弱さ」が滲んでいた。
立場の上下や優劣などの価値評価(偉さ)のみに囚われて生じる驕りや僻みを越え、「平等なるいのちに帰れ」という本願の喚び声によって、お互いがかけがえのない存在(同朋)であったと気づき遇えた時、私たちは人間としての「尊さ」に初めて目覚め、争いに煩わされない「真の強さ」に生きることができるのではないだろうか。私の「弱さ」に出遇う。難しいが、ここが突破口なのかもしれない。(南御堂HPより引用)


2020/03/12

人と意見があわないことは誰しもが経験することである。そこで互いに溝を埋めようと懸命に説明し、言葉を尽くす。しかしそうすればするほど結局は自己弁護ばかりに終わってしまうものである。
私たちは「理解」ということにとても執着する。近代文明の基礎が「知性による理解」であるからであろう。しかし知性こそが互いを傷つけ、貶め合い、果てにはあらぬ絶望を招く根本の要因ではないだろうか。人は知性のみで生きているわけではない。
仏法は「出遇う」と表現される。知性の衣を脱ぎ、「わからなくてもきく」ことが大切である。知性に迷う私たち。手を合わせ、身を通していただく「まことの智慧」に出遇いたいものである。(南御堂HPより引用)


2020/02/19

この言葉を見ると、ロックバンド「かりゆし58」の『鳴呼、人生が二度あれば』の歌詞が頭に浮かぶ。
人生、やり直しがきくならば、きっと辛く苦しい過去も無かったことにできるだろう。しかし、二度目の人生によって得るものがある代わりに、何か大切なことも失われるように思えてならない。〝人生が二度あれば覚悟なんて意味をなくすだろう〟〝涙なんて流れはしないだろう〟そして〝いのちがこんなに輝きはしないだろう〟。
やり直しのきかない人生だからこそ、待ったなしの命だからこそ、私たちは真剣に自身と向き合い、その瞬間を生きていくことができるのではないだろうか。(難波別院HPより引用)

 

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2020/01/25

寒芍薬とリョウブです。

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