神戸市灘区で納骨堂があるお寺をお探しなら永代供養ができる真宗大谷派(浄土真宗)璧圓寺へ。法事・葬儀もお任せ下さい。

2019/03/21

明日 2019年3月22日は璧圓寺の彼岸会法要です。法要をお勤めした後、本照寺前住職 沖野頼信先生の御法話を聞きましょう。時間は午後2時から、場所は璧圓寺本堂です。たくさんの方のご参詣をお待ちしております。


2019/03/15

今年は平成最後の年です。まだ8日しか経っていませんが、その間に月に関する話題が2つありました。1つは中国が月の裏側に人工衛星を着陸させたことです。もう一つは太陽と地球の間に月が入って部分日食があったことです。月に関することと言えば、法然上人が月のことを和歌にしています。
「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
この和歌に曲がつけられた「月影」は浄土宗の宗歌であると共に、浄土宗の宗門の学校の校歌にも使われています。
「影」は「光」そのものの意味です。「月影の いたらぬ里は なけれども」は月の光はどの場所にも隔てなく届いているという意味です。昔は今と違って夜が真っ暗だったので、月の光の方が太陽の光より印象深いものでした。「眺むる人の 心にぞすむ」とは普段意識することがなく、当たり前のように思える月を見上げる人だけの心のなかに澄みわたっているという意味です。月を見あげる気持ちがない人にはその光が澄み渡ることはありません。月に例えられているのは阿弥陀さまの慈悲の光のことです。慈悲の光はあらゆる人の下に平等に降り注がれていますが、そのことを知ろうとしない人には光が届いていることがわかりません。
ところで、初めて空にある月のことを月として私たちが認識した時のことを覚えていますか?恐らく誰かから「あれが月だよ」と指を指して教えてもらったからではないでしょうか?七高僧の第一は龍樹という人です。龍樹は「大智度論」という本を著されました。その中に「指月の譬」があります。これは月のことを知らない人に月を教えるためには、月を指で指し示して教えますが、月のことを知らない人は月を指している指の方に注目してしまうということを表しています。月のことを教えるためには指し示すことが必要ですが、指を使うと指の方に注目されてしまうというジレンマが生じます。月は阿弥陀仏の教えを示し、指は仏法を説く人のことを示します。仏法を説く人にばかり注目すると、本当の仏法が見えなくなりますよという譬えです。仏法を学ぶ過程においては「月」を見ずに「指」ばかりが気になってしまうというのはありがちなことです。阿弥陀仏の教えは「不可称不可説不可思議」といい「思いはかることも、説きつくすことも、思議することもできない」ものなので、自分自身の心で気付かなければなりません。
朝日新聞のコラムでジュンパ・ラヒリさんの言葉を紹介していました。それは「彼らがわたしの言うことがわからないのは、わかろうとしないからだ」というものです。言葉はそれを聞こうとする人のもとにしか届きません。関心のない人にはいくら言葉を尽くしても伝わりません。それは「聞く」ということは他者を人として尊重する意味合いがあるからだそうです。また、「話す」側にしても聞いてくれる人がいなければ話すということが成立しません。話す側は聞き手を意識して、月を指す指を見られるような話しではなく、指し示した月を見てもらえるような話しをしなければなりません。私も過去の残念な経験を踏まえた上で、自分に言い聞かせています。一方では聞き手の聞き方も最近は変化してきているように思います。話し手は起承転結のようなストーリを考えて話をしますが、はじめから結論を求める人が増えてきているように思います。そこで話し手と聞き手の間で齟齬が生じてくるのは残念なことです。結果的に指示している月を見ていただけないことになってしまうので、言葉というものは難しいものだなと思います。
「月影」はお経(仏説観無量寿経)の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という言葉を解釈したものです。阿弥陀様の光はあらゆる人の上に平等に届いています。お念仏を信じる人はそのことをよくご存じですが、信じていない人はそのことを知っていませんということです。法然上人はお経の言葉を伝えるために、よく和歌を詠まれました。
親鸞聖人は「一念多念文意」の中でこう表しています。
もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり
私たちは欲しがらなくても「無上の功徳」を既に得ており、「広大の利益」を受けているのにそのことに気付いていません。その知らない事実を知るためには全てをおまかせして、心から念仏を称えることが必要です。知らないままでいると、いのちを授かって、生かせていただいていることの素晴らしさがわかりません。わからなければ、「もっともっと」と欲しがるばかりで、さらに欲が深まります。満ち足りた喜びの世界に出遇うことができません。「知恩報徳」は恩を知ることによって本当のお念仏を称えることができるということです。それが本当の真宗のいただき方です。「月影」は真宗のいただき方を伝えるものであり、阿弥陀様の慈悲の御心を表現しているものです。


2019/03/11

気の置けない友人や家族の前で、その場にいない人の欠点をあげつらったり、悪口を言って盛り上がったりする。そんな経験を誰もが一度や二度したことはないだろうか。調子にのって、言わないでいいことまで話し、決まって最後には後味の悪い思いをし、後悔するのがオチである。
後になって反省をするのだが、「悪かった」と反省してみたところで、悪いところを改善できると思い込んでいる限り、見えてくるのは善人面の私の姿ではないだろうか。
どこまでも都合よく私自身を見ようとするその性根を照らし、気づかせるはたらきに出会わない限り、自分自身の闇など思い当たりもしないのだろう。(難波別院HPより)

 

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2019/03/11

今年も暮れてきましたが、改めて齢を重ねるごとにつらい別れが増えてくる気がします。お釈迦様は人生は苦の連続であることを教えて下さいました。「愛別離苦」は仏教でいう「四苦八苦」の五番目の苦しみです。愛しいものとも別れていかなければならないといおう苦しみです。私も両親や友人との別れを経験しています。最近、近くのお寺の住職であった友人が亡くなりました。病の中で彼が言っていた「お互いのお寺でお勤めしあうことが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった」という言葉を忘れることができません。彼の院号は「大行院」です。「大行」とはお念仏のことです。お念仏は仏様が呼びかけ続ける大きなはたらきです。私たちは大切だと思っていることでも、それに慣れてくると次第に疎かになってきます。「行」も同様に、私の行であれば疎かになってきます。しかし念仏は仏様の「行」ですので、このようなことはありません。仏の行は「常」に行われている大行です。私たちの行は「恒」、つまり「ときどき」仏様からの常なるはたらきかけによって行われるものです。親鸞聖人はこのように仏の行と私たちの行を区別されました。仏様の常なるはたらきかけがあることによって、私たちは安心してときどき念仏を称えることができます。そこに「他力」のはたらきがあると思います。
本山の報恩講は11月21日から28日まで行われますが、これは親鸞聖人が最後に床に臥せられてから亡くなるまでの期間です。その親鸞聖人にとって一番大変であった期間が我々真宗門徒にとって最も大切な報恩講の期間になっています。『御伝鈔』には亡くなられるときに「念仏の息たえましましおわりぬ。」と記してあります。「念仏の息」とは私たちが生きている限り、仏様がはたらきかけ続けているということです。このことが他力であり、「信心」とはそのことに気付くことではないかと思います。
世自在王仏が出て来られる以前、53の仏様がおられました。法蔵菩薩が世自在王仏と出会い、長い期間の思惟とご修行を経て阿弥陀仏となられ、南無阿弥陀仏の念仏を私たちに届けてくれました。阿弥陀仏が出て来られる背景として世自在王仏の前に53の仏様がおられます。背景ということですが、たくさんの方がお寺とご縁を結んでおられますが、そのご縁を結ぶこととなった背景には大切な方を亡くしたという「悲」の逆縁、つまり「愛別離苦」があることが多いと思います。色々な表情の私たちの今、「果」には悲という「因」があるように思います。私たちが南無阿弥陀に出会う背景が53の仏の歴史として説かれているのだと思います。私も両親や友との果としての「悲」しい別れを通して、たくさんの気付き、「因」をいただくことができました。53仏の二番目は光遠仏ですが、宮城先生は「遠ければ遠いほどその光を増すものを光遠仏というのだ」とおっしゃられました。亡くなられたことによって遠くなったからこそ出会わさせていただくことのできるものの象徴として「光遠」を受け取っています。
子どもは親に対してひどい言葉を浴びせることがありますが、それは親に甘えるが故です。しかし、親が生きている間にそのことに気付くことはないでしょう。正親含英先生は「親に三種の親あり」とおっしゃていました。一つめは戸籍上の親で、私をこの世に産み出してくれた親です。二つめは育ての親で毎日の生活を共にする親です。その親は百面相の親と呼ばれます。これはこちら側の想いによって百のあるが如く変化する親です。こちらの都合によって姿を表す親です。親が生きてる間はこちらの都合に合わせて変化するので、本当の意味での出会いはないのでしょう。三つめは自分が苦しいときに「お父さん」「お母さん」という呼び声としてはたらきかけてくる親です。つらいときでも調子のいいときでも見守り続けてくれる親です。曽我量深先生は念仏のことを「念念仏」とおっしゃられました。「わたしのことを念じてくれる仏を念ずる」という意味です。どんな時でもわたしのことを念じてくれる、それが三つめの親との出会いでしょう。悲しいかな生きてる間にこの出会いを果たすのは難しい。親との本当の意味での出会いは亡くなった後になるのではないかなと思います。「遠ければ遠いほどその光を増す」光遠仏という言葉が胸に響きます。両親や友との悲しい別れを通して、光遠仏という言葉に改めて出遇わせていただいたのではないかと思います。


2019/03/01

岡本の梅林公園に梅を観に行きました。多くの種類の梅が満開で、その姿はもちろん、よい香りも周囲に漂っていました。天気も良く、いい一日でした。

 

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