神戸市灘区で納骨堂があるお寺をお探しなら永代供養ができる真宗大谷派(浄土真宗)璧圓寺へ。法事・葬儀もお任せ下さい。

沖野頼信先生 「依修多羅顕真実」(2019年3月22日 彼岸会法要)

2019/05/10 - 真宗の教え

お彼岸の意味はご存知ですか?彼岸は向こう側の岸という意味です。これに対してこちら側の岸は此岸と言います。彼岸はお浄土であり、此岸は地獄と言います。仏教はお浄土に行く方法を教えてくれます。お聖教にはその方法が書いてあります。中国語のお聖教を日本語に訳して内容を知ることはお浄土に行きたいという我々の欲望を満たすこととなります。合掌も同様に私たちの欲望を満たすために仏さまにお願いをする行為です。実は地獄と浄土は場所の名前ではなく、我々のものの見方の名称です。地獄は私たちの心の中にあり、私たちがどこに行こうとも一緒に付いてきます。これに対して、お浄土は常に私たちのいる場所と反対側の場所にあります。「浄土」は「余計なものがない」という意味で、「邪見」なものの見方がないことです。自分にとって都合がいいことがよいことで、都合が悪いことは悪いことです。すると、人にとってそれぞれ都合がいいことと悪いことが異なることになります。ある人にとっては不幸なことでも、反対側から見れば有難いことは色々とあります。ですので、私たちの見方では普遍的にいいとか悪いとかは決められることは存在しないことになります。仏教はいいこととか悪いことは存在しないということを教えてくれる教えです。

仏教で「無我」という言葉があります。「無我」とは自分中心のものの見方や主観的なものの見方を否定する言葉です。言い換えると客観的なものの見方を勧めます。「わたし」に対しての「みんな」という観点からのものの見方です。すると「いいことも悪いこともない」ということがこの世の本当の姿ということになります。「いいこと」を決めてしまうと、それを目指して自分自身が「しんどい」思いをすることになります。これをやめ、広い視野を持つことによって「楽に生きる」ことができるようになります。広い視野とは「無量寿」長い時間を軸とした視野と「不可思議光」広い空間を軸とした視野によって構成されます。

「如来」は「如去(にょこ)」とも言います。「そのままの世界から来る人」と「そのままの世界へ去っていく人」という意味です。「そのままの世界」とは「いいも悪いもない世界」です。「いいも悪いもない世界」で欲望がなくなった状態を「無為涅槃」といいます。仏教の最終目的は「無為涅槃」の状態になることです。これはとても楽に暮らせる状態です。漫画で有名なバカボンは「薄伽梵」というインドの言語でお釈迦様を呼ぶときの言葉に由来しており、「これでいいのだ」が口癖です。「これでいいのだ」と考えると、楽に生きることができます。

正信偈に「依修多羅顕真実」という言葉があります。これはお経に真実が記されているということです。この世にはいいも悪いも存在しないという真実、お釈迦様はこの真実に最初に気付かれた人です。真実は明らかにされていますが、問題は我々が納得できるかどうかということです。仏教は科学と性格の似た客観的なものの見方を行うという側面を有しており、理屈を重視します。これに対して感情的なものの見方を「邪見」と言います。「邪見」は私たちを幸せにするものではありません。天親菩薩はこのことを明らかにされました。また、正信偈には「龍樹大士、世に出でて、悉く能く有無の見を摧破せり」とあり、「いいことも悪いこともない(有の見解も無の見解もない)」という意のことが記されています。龍樹菩薩はこのことを「空」と表現されました。「空」は何もないゼロの状態のことを示すものです。このことに納得すれば、とても楽な気持ちになります。仏教の救いは欲望のなくなった状態になることです。生死に振り回されない教えが仏教の教えです。

また、「無常」とは「この世は変化し続けるものであり、何物によってもその変化を変えることはできない」という意味です。内陣に供えられている華はそれを象徴するものです。「無我」は「我」の見解を否定することです。内陣のローソクは時に灯りとなって周りを照らしますが、その熱は時に都合の悪いものとなります。そこでローソクは「この世にはいいも悪いも存在しない」ことの象徴となります。

いままでお話しさせていただいたことに納得された方は今すでに救われています。そうではない方は邪見に振り回されています。仏様の教えとは私たちが「楽に生きる」ための教えなのです。


〒657-0835 兵庫県神戸市灘区灘北通2-7-2

tel:078-861-1710

mail:

Copyright © 2018 真宗大谷派 普照山 璧圓寺 All rights reserved.